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神社仏閣説明集
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秋田 ゴザノイシジンジャ
御座石神社
田沢湖の北岸にあり、岩の上の赤い鳥居が藍色の水面に映えて鮮やか。
伝説の美女「辰子姫」を祭る社で、小さな拝殿と本殿がある。附近は御座石とよばれる岩礁地帯で、名勝地になっています。
岩手 チュウソンジ
中尊寺
嘉祥3(850)年に慈覚大師が開基した天台宗の寺院で、建立時は関山弘台寿院と号したが、貞観元(859)年に中尊寺と改めた。
奥州藤原氏・初代清衡は、この基盤の上に長治2(1105)年、前九年・後三年の戦いで亡くなった人々の霊をなぐさめ、仏国土を建設するため中尊寺一山の造営に着手した。
文治5(1189)年、すなわち義経が没し、藤原氏が滅亡したこの年の9月17日の条に、当時の中尊寺の規模が「寺塔四十余宇。禅坊三百余宇也」と「吾妻鏡」に書かれ、また、平泉中心の体制づくりが仏教を基盤にして行われたことが記されている。惜しくも14世紀に野火のため多くの堂塔は焼失したというが、今なお山内には弁慶堂・本堂・鐘楼・旧覆堂・不動堂・
積善院(特別史跡)などが点在する。
宮城 シオガマジンジャ
鹽竃神社
(旧国幣中社)現:別表神社。
1200年以上の歴史を持つ、別宮に鹽土老翁神(しおつちのおじのかみ)、左宮に武甕槌神(たけみかずちのかみ)、右宮に経津主神(ふつぬしのかみ)の御三神を祀り、海上安全・大漁・延命長寿等の神として信仰されてきた。
社殿は宝永元(1704)年伊達吉村の造営であるが、20年ごとの修営の制を残している。
(東隣に鹽竃神の国造りに協力した志波彦を祭る志波彦神社がある。)
宮城 オオサキハチマンジンジャ
大崎八幡神社
旧村社。祭神:応神天皇・神功皇后・仲哀天皇
本社は天喜5(1057)年源頼義・義家父子が奥州にあって武具を納め、八幡宮を祀り、その後正平16(1361)年義家の後裔・大崎兼家は社殿を再興、大崎氏の氏神として大崎五郡の総鎮守と尊んだという。
その後、慶長12年(1607)伊達政宗により造営された桃山様式の神社で、絢爛豪華な装飾・金具が特徴的です。長い石段と老杉の並木。京都の豊国神社にならい造営したと言われる社殿は本殿と拝殿を石の間でつなぐ権現造りの典型で桃山建築の様式を現在に伝える最古の社殿として国宝の指定を受けているそうです。  
☆平成10年、「大崎八幡神社」から改称し「大崎八幡宮」となる。

宮城 宮城縣護國神社・別宮)
浦安宮
左宮・右宮があり、左宮には天照坐大御神ほか三柱、右宮には古くから鎮座の白水稲荷大神と藩祖伊達政宗を祀る

(宮城縣護國神社)
明治37年8月招魂社として創建、
昭和14年4月内務大臣指定護國神社列格、昭和20年太平洋戦争で社殿他全施設焼失、秋保神社仮宮へ昭和28年浦安殿竣工、伊勢神宮外宮別宮風宮旧御正殿を本殿として領賜さる
宮城 コガネヤマジンジャ
黄金山神社
(旧県社)現:別表神社。祭神、金山毘古神(カナヤマヒコノカミ)、金山毘賣神(カナヤマヒメノカミ)、天神八百万神(あまつかみやおよろずのかみ)、地神八百万神(くにつかみやおよろずのかみ)。
金華山全体が神域。天平21(749)年、日本で初めて金を産したことを讃えて翌年建立された。文禄2(1593)年下野国岩倉の武蔵坊長俊なる者が大金寺を再興し、真言の道場として祭祀を営むにいたった、天正19(1591)伊達領となるが正宗以来歴代藩主の崇敬をうけ一山は除地として永く営繕を加えられた。明治2(1813)年神仏分離によって寺号を廃し黄金神社と改称した。
年金運、開運、商売繁盛の神(漁農商海運施福の神)として信仰を集め、3年続けて詣でると、一生お金に困らないといわれている。
5月の初巳(はつみ)の日より1週間「初巳大祭」「神輿渡御」、7月最終土・日曜には金華山最大のイベント「龍神祭」、10月第1・第2日曜日「神鹿角切(しんろくつのきり)」の行事が行われる。神鹿角切は日本で金華山と奈良県だけの行事である。

新潟 マノグウ
真野宮
旧県社。順徳天皇を主神とし、菅原道真、日野資朝を配祀する。
順徳上皇の住居であった国分寺の末寺真輪寺
(しんりんじ)を廃仏毀釈後明治9(1876)年に真野宮としたもの。
佐渡島のこの一帯は桜の名所・真野公園となっている。宮の後方丘上にある上皇行在所跡は真輪寺阿弥陀堂跡。
山梨
ゼンコウジ
善光寺
定額山(じょうがくざん)浄智(じょうち)院と号する。浄土宗の寺。本尊は阿弥陀三尊像。甲府善光寺ともいう。長野善光寺第37世鏡空(きょうくう)を開山とし、永禄1(1558)年の開創。開基は武田信玄。
信玄は長野善光寺の本尊を兵火から守るため、甲府に善光寺を建ててこれを移した。その後、甲府善光寺の大本願上人以下が信濃に帰座したため寺勢は衰えたが、増上寺の仰誉
(ぎょうよ)が中興。寛政8(1796)年再興された山門と金堂は国重要文化財で、長野善光寺のそれを模している。
神奈川 コウトクイン
高徳院
本尊の金銅阿弥陀如来の巨像により、「鎌倉大仏」「長谷の大仏」として知られる、浄土宗のお寺。開基は不詳。1195年(建久6)源頼朝は東大寺供養に参列しているが、「大仏縁起」によると、このときに頼朝は鎌倉大仏建立を誓願したと伝えている。大仏殿は僧浄光の勧進により営造が計画され、暦仁1(1238)年3月に営造の儀が行われた。当初の大仏は木造であった。大仏殿は寛元1(1243)年6月に完成。現在の金銅仏は建長4(1252)年8月に鋳造を開始したが、完成時は不明。明応7(1498)年の大地震と水害以降、荒廃の一途をたどったが、正徳2(1712)年増上寺の裕天(ゆうてん)僧正がこれを再興、高徳院とし、以後浄土宗となる。元文4(1739)年開眼供養を行った。現在は露座仏の周りに鉄筋の回廊、書院がある。大仏は昭和33(1958)年に国宝に指定された。
神奈川
ツルオカハチマングウ
鶴岡八幡宮
旧:国幣中社。現:別表神社。祭神は応神天皇、比売神、神功皇后の3座を祀る。
1063(康平6)年源頼義は鎌倉由比(ゆい)郷に石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)を勧請(現在の末社由比若宮)し、1180(治承4)年源頼朝は東国に挙兵し鎌倉に入ると、社を小林郷北山の現社地に遷し、都市鎌倉の中心に据えた。以後八幡宮は、源氏の氏神、幕府の守護社として、鎌倉幕府の発展に伴って機構が整備され、別当、25坊の供僧などが置かれた。1191(建久2)年社殿を焼失したため、裏山の中腹を切り開いて本社(上宮)を造営、山下の若宮(下宮)、摂末社も整い、面目を一新した。

明治の神仏分離によって打撃を受け、一時疲弊したが、第二次世界大戦後とくに昭和40年代の初詣で人口の増大にのって、8年間初詣で日本一を記録したそうです。(現在は明治神宮が一番と聞きます・・裕記)
神奈川 ハセデラ          
長谷寺(長谷観音)
浄土系の単立寺院。海光山慈照院(かいこうざんじしょういん)と号し、長谷観音と通称される。
寺伝では大和長谷寺の開山、徳道
(とくどう)上人のつくらせた2体の観音像の1体が漂着し、これを縁として天平8(736)年に徳道が創建したものという。本尊は大楠に彫られた9メートル余の十一面観音立像で、木像では日本最大といわれる。
神奈川 スギモトデラ
杉本寺
神奈川県鎌倉市二階堂杉本にある天台宗の寺。本尊は十一面観音菩薩(かんのんぼさつ)三体。大蔵(おおくら)山杉本寺観音院と号し、大蔵観音、杉本観音ともいう。坂東三十三観音第一番札所。鎌倉最古の寺。
天平6(734)年行基が創建し、慈覚大師円仁が中興したと伝える。文治5(1189)年火災にあい、別当浄台坊は火中に入り本尊を取り出したが、衣をわずかに焦がしただけで火傷もしなかったという。またこのとき、本尊がひとりで庭内の杉の根本に避難したので、杉本というとも伝えられる。源頼朝(よりとも)・実朝(さねとも
が参詣し、たびたび厚い保護を加えているそうです。
東京 メイジジングウ
明治神宮
旧:官幣大社。現:別表神社。明治天皇・昭憲(しょうけん)皇太后を祀る。
1920(大正9)年11月1日創建。明治45(1912)年7月30日明治天皇が亡くなり、大正3(1914)年4月11日その皇后昭憲皇太后が亡くなったあと、国民の間からその神霊を祀り、遺徳を慕い敬仰したいとの気運が高まり、1915年明治神宮造営局官制が公布され、江戸初期以来、大名加藤家、井伊家の下屋敷の庭園であり、明治時代に代々木御苑とされ、明治天皇・昭憲皇太后ゆかりの当地を選び造営することとした。その境内約70万uの造園整備は全国青年団の勤労奉仕によりなされ、その樹木365種、約12万本も全国より献納された。30万uに及ぶ外苑は1926年完成。
昭和20(1945)年4月本殿以下戦災を受けたが、1958年復興。
東京 ノギジンジャ
乃木神社
旧:府社。現:別表神社。祭神は乃木希典命(のぎまれすけのみこと)。相殿に乃木静子命を祀る。
日露戦争の英雄・陸軍大将乃木希典は、明治45=大正元(1913)年明治天皇御大葬当日、静子夫人とともに自宅で自刃した。1913年東京市長の阪谷芳郎は中央乃木会を結成、1923年乃木邸の隣地に社殿が創建された。
山口県(乃木の郷里)、栃木県・那須、京都府、北海道・函館にも乃木神社がある。

岐阜 ヒエジンジャ
日枝神社
三仏寺城主・飛騨守平時輔朝臣が、ある日狩にでて山野をかけめぐり、片野山中で奇瑞のことがあったので、永治元(1141)年に日吉山王を勧請し崇めたのが起原とされている。その後、時輔の曾孫・景家は片野村の石光山に拠っていたが、養和元(1181)年、源義仲に攻められて落城し、社殿も兵火にかかって焼失したので、辛うじて御霊代を片野ヶ丘に奉還し、片野村の産土神(うぶすながみ)とした。天正13(1586)年、金森長近が飛騨を平定して入国するや高山の天神山に築城し、片野村の産土神を現在の地に奉還して高山城の鎮護神として崇めた。元禄5(1692)年、飛騨が天領となってからも、高山陣屋の代官・郡代の尊崇が厚かった。明治以後は県社になったが、戦後は金幣社に列せられ、高山市南半分の氏神として市民の崇敬をあつめている。
京都
サンジュウサンゲンドウ
三十三間堂
蓮華王院(れんげおういん)の本堂。本尊は千手観音。蓮華王院は天台宗に属し、天台三門跡の一つである妙法院が管理する。後白河法皇の発願により長寛2(1164)年に平清盛が造進。
湛慶らの作になる1001体の千手観音像、風神・雷神像、二十八部衆などの彫刻がある
南北に125メートルある御堂内の柱の間数が33あることに由来してこの名がある。
京都 ヘイアンジングウ
平安神宮
旧:官幣大社。現:別表神社。桓武天皇、孝明天皇(昭和13年5月1日より)を祭る。
明治28年(1895)平安遷都1100年を記念して創建された。神苑は池泉回遊式庭園として名高い。社殿の大極殿(外拝殿)・応天門(楼門)・蒼竜・白虎の二楼などはかっての大内裏の規模5/8の大きさをもって造立したもの。
また、春の紅枝垂桜をはじめアヤメ、ハナショウブなど四季折々に美しい花々が咲いている。時代祭は10月22日。
京都 リョウゼンカンノン
霊山観音
神仏を祀る神聖な山である霊山を背負うようにして建っている、巨大な観音坐像(山崎朝雲原型が作成)。戦争犠牲者の冥福を祈って建てられた。裏から胎内に入ることができ、内部に十二支の守り本尊を祀っている。1955(昭和30)年6月8日開眼
京都 ノノミヤジンジャ
野宮神社
旧:村社。天照大神を祀る。
野宮は昔、天皇の代理で伊勢神宮に奉仕する斎宮(皇女、女王の中から選ばれる)が身を清めるため、潔斎期間3年のうち最後の1年を過ごす所であった。野宮の場所は天皇の御即位毎に定められていたが、斎王制度は後醍醐天皇の時に南北朝の戦乱で廃絶したが、神社として存続し、勅祭が執行されていた、時代の混乱の中で衰退したが後奈良天皇、中御門天皇などから大覚寺宮に綸旨が下され野宮神社が保護されるに至った。
京都 ヤサカジンジャ
八坂神社
本殿は寝殿造様式による珍しい神社建築で祗園造りという〔重文〕。7月の祗園祭はこの神社の祭礼で“祗園さん”の名で親しまれている。大晦日のおけら詣りも有名。境内自由。
京都 キヨミズデラ
清水寺
『世界文化遺産』 坂上田村麻呂の発願で大和の僧延鎮上人が開創。現在の建物は寛永10年(1633)家光が再建。本堂〔国宝〕は「清水の舞台」として有名な舞台造で春は桜、秋は紅葉の眺望がすばらしい。西国33カ所第16番札所。
三重 イセジングウ
伊勢神宮
 伊勢の宇治の五十鈴(いすず)川上に鎮座の皇大神宮{内宮(ないくう)}と伊勢の山田の原に鎮座の豊受(とようけ)大神宮{外宮(げくう)}の総称。全国神社の根本的存在から特に本宗(ほんそう)と呼ばれる。
皇大神社は皇祖・天照大御神(天照坐皇大御神)を主祭神とし、相殿に天手力男命(あめのたぢからおのみこと)・万幡豊秋津姫命(よろずはたとよあきつひめのみこと)を祀る。
豊受大神宮は豊受大御神を主宰神として、相殿に御伴神三座を祀る。
古くは伊勢太神宮(いせのおおみかみのみや)ともいっていた。辞書では「伊勢神宮」と紹介されているが、単に「神宮」というのが正式な名称だそうです。皇居の祭祀する最高の存在として社格を超越するものとされた。古くは私幣は禁止されていたが、中世以降、伊勢講などによる民間の参宮が盛んになった。
 明治以後国家神道の中心となったが、1946(昭和21)年以降は一宗教法人。正殿は神明造りといわれる神社建築様式の代表的なもので、20年ごとの式年遷宮の制を伝える。
奈良
シンヤクシジ
新薬師寺
奈良市高畑町にある華厳宗の寺。日輪山(にちりんさん)と号し、香薬師寺、香薬寺、香山(こうぜん)薬師ともいう。本尊は薬師如来。寺伝によると、もとは聖徳太子の創建で、香薬師仏を本尊とする香薬師寺といった。『東大寺要録』によれば、奈良時代、聖武天皇の眼病平癒を祈願して光明皇后が仏堂を建立して丈六薬師如来像を安置したのに始まり、また東大寺別院となって、寺号も日輪山新薬師寺と改めたという。一説には光明皇后の眼病平癒を祈って聖武天皇が発願した寺であるともいう。宝亀11(780)年西塔に落雷があって現本堂(国宝)を残し焼失して衰亡したが、鎌倉時代に再建された。
奈良
ムロウジ
室生寺
宇陀(うだ)郡室生村室生にある真言宗室生寺派の大本山(もと真言宗豊山(ぶざん)派)。室生山悉知(しっち)院という。山号は生山(むろうさん)。宀一山(べんいつさん)(宀一は室生の略)ともいう。本尊は如意輪観音。天武10(681)年に天武天皇の勅願で役小角(えんのおづぬ)が開創したと伝える。奈良末期から平安初期にかけて興福寺の賢憬(けんけい)が堂宇を建立したといわれ、当時、祈雨の神の室生竜穴(りゅうけつ)神の別当神宮寺であった。天長年間(824〜834)空海によって諸堂塔が再興された。江戸時代に将軍徳川綱吉の帰依があり、護国院の隆光が再興した。
奈良 オカデラ(リュガイジ)
岡寺(龍蓋寺)
天平時代、義淵(ぎえん)僧正が創建。西国7番札所で、入母屋造の大本堂や大師堂などが立つ。本尊如意輪観音坐像〔重文〕は高さ4.5mの塑像(そぞう)で胎内には白鳳仏〔国宝〕があり厄除観音として有名。
奈良 ハンニャジ
般若寺
654年孝徳天皇の病気全快を祈願して創建された。現在は再建された本瓦葺きの楼門〔国宝〕・本堂・十三重石塔〔重文〕が残っている。花の寺と言われ、四月の山吹、六月のアジサイ、十月のコスモスが美しいと言われているが、8月の花のない時期に訪れました。
岡山 サイジョウイナリ
最上稲荷
天平勝宝4年(752)に報恩大師が本尊の最上位経王大菩薩を感得した事に始まる。「龍王山神宮寺」として繁栄した、戦国時代、羽柴秀吉の備中高松城水攻めの際、戦火によって堂宇焼失。ただし、本尊の最上さまだけは八畳岩下の元宮で難を免れ。新領主の花房公が関東より日円聖人を招き復興、慶長6年(1601)で寺名も「稲荷山妙教寺」と改めた。伏見・豊川と並ぶ日本三大稲荷として最上稲荷は1200余年の歴史を通じて仏教の流れを汲んだ稲荷です。
島根 マリア聖堂 乙女峠の廃寺光琳寺にはかつて切支丹信徒が収容されていた。 これは、幕府が切支丹信徒を改心させる為津和野藩に預けたのが 現津和野駅西方乙女峠だった。明治6年帰国に至るまでに殉死した信者36人あった。後に津和野教会神父パウロ・ネーベル氏によりマリア聖堂が 昭和26年建立され殉教徒の霊を慰めている。
島根 イズモタイシャ
出雲大社
旧:官幣大社。現:別表神社。祭神は大国主大神、縁結びの神様が鎮座する大社は有名。
大注連縄が拝殿正面にあり、圧倒される。拝殿は1959年に総檜で再建された。奥の本殿〔国宝〕は大社造りといわれる日本最古の建築様式の一つで、18世紀半ばに造営された。境内には摂社、末社、彰古館、文庫、宝物殿などがある。大社駅からは神門通りを進んで国道431号線に面した大鳥居をくぐり参道を行くと銅の鳥居に出る。拝殿は正面に見える。拝殿を廻り込むと回廊が左右にある八足門がある。一般参拝はここまで。回廊に続く瑞垣に囲まれた内に楼門、本殿などがある。
島根 ヒノミサキジンジャ
日御碕神社
旧:国幣小社。現:別表神社
日御碕港の近く、緑に囲まれて朱塗りの社殿が建つ。向かって右手が素戔嗚尊(すさのおのみこと)を祭った神ノ宮(通称上の宮)で、正面は天照大御神(あまてらすおおみかみ)を祭る日沈宮(ひしずみのみや)(通称下の宮)。社殿は徳川家光の命で造営された権現造の建築様式。ここから見る日本海の夕日はすばらしい。〔国重文〕
島根 ミズワカスジンジャ
水若酢神社
旧:国幣中社。現:別表神社。水若酢命を祀り、中言神(なかことのかみ)・鈴御前を配祀する。
隠岐一の宮で黒松の林に囲まれた社殿は落ち着いたたずまいを見せる。由緒は未詳ながら、仁徳天皇の時代と伝えられている、続日本後記によると承和9(842)に官社に列している。年今の社殿は18世紀末に再建されたもので「隠岐造り」と称され1992年に国の重要文化財に指定された。外苑には隠岐郷土館があり、島内の民俗資料などを展示している。
山口 ショウインジンジャ
松蔭神社
旧:県社。吉田松陰を祀る。
明治23(1890)年松蔭実家・杉氏の私祠として建立され、明治40年に公認の神社として許可された。昭和30年に社殿を改築。
吉田松陰(1830-1859・安政の大獄で刑死)が祭ってある神社、萩市。境内には、有名な「松下村塾(しょうかそんじゅく)」を見ることができる。東京・世田谷には旧府社の松蔭神社がある。
山口 ホウフテンマングウ
防府天満宮
防府市松崎町に鎮座。菅原道真と、その祖天穂日命(あめのほひのみこと)・武夷鳥(たけひなとり)命・野見宿禰(のみのすくね)を祀る。延喜1(901)年菅原道真は左遷され大宰府へ向かう途中、当地勝間の浦に着船、時の周防国国司土師信貞(はじのぶさだ)は同族であったので、これを迎え1日松崎の地に招いたことで、道真の薨後(こうご)すぐこの地に神廟を建てたことに始まる。古くは松崎天神と称した。
山口 トウコウジ
東光寺
萩市椿東(ちんとう)にある黄檗(おうばく)宗の寺。護国山と号する。元禄4(1691)年第3代長州藩主毛利吉就(よしなり)により建立され、黄檗山第2世木庵性(もくあんしょうとう)の弟子慧極道明(えごくどうみょう)を開基とする。大照院と並ぶ毛利家の菩提寺である。代々の藩主の帰依を受け、文化年間(1804〜18)の最盛時には堂塔40棟を数え、黄檗三叢林(そうりん)の随一であった。現在、本堂(大雄宝殿)、総門、三門、鐘楼(いずれも国の重要文化財)などに往時の隆盛をしのぶことができる。
山口 アカマジングウ
赤間神宮
旧:官幣大社。現:別表神社。
1185年4月25日源平最後の合戦になった壇ノ浦の戦に敗れた(二位ノ尼に抱かれて入水した)安徳天皇を祀る。後鳥羽天皇が建久2((1191)年長門国に勅し御影堂を建て阿弥陀寺を勅願寺とした、明治時代の神仏分離で阿弥陀寺は廃され御影堂は天皇社と呼ばれ明治8(1875)年に赤間宮と改称した。
海に面して建つ朱塗の龍宮造の水天門(1958年再建)、境内には神宝を所蔵する宝物殿、平家一門を祭る七盛塚、耳なし芳一像がある。
廣島 エダジマハチマングウ
江田島八幡宮
三百年近い歴史を誇る江田島総鎮守。広島県安芸郡江田島町中央4-1-30
廣島 ミタキジ
三瀧寺
三瀧寺は、三滝観音として親しまれている。境内には水流の異なる三つの流れが瀬音を響かせ、各水流が滝を有していることから三瀧寺と呼ばれているが、江戸時代には龍泉寺とも称していました。県の重要文化財の朱色の多宝塔は、もともと和歌山県の広八幡神社の境内に建立されていましたが、原爆犠牲者の慰霊のため、昭和26年(1951年)に移築されたもので室町時代のもの。その塔内には、国の重要文化財である、平安時代に制作された木造阿弥陀如来坐像が安置されている。
廣島 ワセダジンジヤ
早稲田神社
文亀3年(1503)に起工し、永正8年(1511)神霊を奉斎した。天正4年(1576)社殿を改築、昭和30年全焼した。昭和35年に再建、境内より縄文早期の遺跡及び弥生時代の墳墓(廣島県史蹟)が発見されており出土品は資料館に保存展示されている。  広島市東区牛田早稲田にある。(実家の近く)
廣島 ヒロシマゴコクジンジャ
廣島護國神社
広島護国神社は、明治元年11月、明治維新の戊辰の役において陣没した高間省三命以下78柱を、二葉の里に造営された「水草霊社」に奉祀しての創建。昭和9年、社殿老朽で、西練兵場(現在の市民球場の辺り)の西端に新社殿を造営し移転。同14年に廣島護国神社と改称された、昭和20年8月6日被爆で社殿すべてを焼失。その後同地に小祠を設けて祭祀を続け、市の復興に伴い移転されたため、昭和31年秋現在の廣島城跡に新社殿が造営された。
廣島 イツクシマジンジャ
厳島神社
〔世界文化遺産〕宮島の北側の砂浜に鎮座する古社で、6世紀後半の創建と伝えられるが、平清盛が仁安3年(1168)に現在の形に造営した。檜皮葺・寝殿造の20数棟の社殿が回廊によって結ばれていて、ことに満潮時には、敷地が海となり、竜宮城を思わす景観が展開する。本社正面の海上に立つ朱塗りの大鳥居は宮島のシンボルとなっている。
廣島 ニギツジンジャ
饒津神社
宝永3年(1706)浅野家六代綱長の時に廣島城の良い方位といわれた明星院客殿西方に初代浅野長政の位牌堂を建立した。文化7年(1810)十代斉賢が九代重粛とともに新たな位牌堂を建立した。この位牌堂が饒津神社の先駆的なものとされる。天保6年(1835)十一代斉粛が祖先の追孝の為に社殿を現在地に造営、二葉御社と称した、明治6年に饒津神社と改称し昭和20年の原爆による破壊から現在に至る。
廣島 ヒロシマトウショウグウ
広島東照宮
 広島東照宮は、慶安元(1648)年に広島藩主の浅野光晟が造ったものです。
原爆によって本殿、拝殿を焼失したものの、焼け残った唐門、翼廊手水舎などが江戸時代の建築の特徴をよく伝えてる。
廣島 ツルハネジンジャ
鶴羽根神社
 鎌倉時代源頼政の遺言で二葉山山麓に建立された椎の木八幡宮が前身といわれ約800年の歴史があり広島東部の総氏神だそうです。
 明治元(1868)年浅野長勲(12代藩主)の撰名で鶴羽根八幡宮と改称明治5年鶴羽根神社と改められる。昭和20年8月6日の原爆により社殿は廃燼に帰すが再興されたが石鳥居は往時の姿を残している・・・
香川 ヤシマジ
屋島寺
屋島寺は天平勝宝6年(754)唐僧・鑑真の建立といわれ、四国八十八か所84番の札所となっています。山門をくぐると奥に朱塗の本堂、その手前に合戦悲話を伝えたといわれる屋島たぬきを祭る「蓑山大明神」があります。
香川 コトヒラグウ
金毘羅宮
琴平町ににある、旧国幣中社。大物主神オオモノヌシノカミを主神とし、崇徳ストク天皇を合祀する。
古来より航海の守護神として崇敬される。こんぴらさん。
福岡 コウラタイシャ
高良大社
旧:国幣大社。現:別表神社。高良玉垂命(こうらたまだれのみこと)を主神とし、相殿(あいどの)に八幡大神、住吉大神を奉斎している。
久留米市御井(みい)町に鎮座。創建は、履中(りちゅう)天皇元年という。天武2(6739)年2月、神主物部道麿(もののべみちまろ)の子美濃里麿(みのりまろ)に神託があり、それによって大祝(おおはうり)家三男隆慶を社僧にしたという。その子孫は江戸時代前まで48世続き、盛時には神宮寺御井寺(みいでら)の座主(ざす)として一千余名の僧徒を支配した。例祭は10月9〜11日。現社殿は万治3(1660)年の造営になる権現造で、社宝の紙本墨書平家物語覚一本12冊とともに国の重要文化財に指定されている。
福岡 スミヨシジンジャ
住吉神社
旧官幣小社。現:別表神社。
博多区住吉町に鎮座。底筒男命(そこつつのおのみこと)、中筒男命、表(うわ)筒男命の3神を主祭神とし、相殿(あいどの)に天照皇大神、神功)皇后を配祀(はいし)する。摂津国(大阪府)、長門国(山口県)の住吉神社と同様、古代日韓交渉に多く関係した。筑前国一宮と称されて尊崇を受けるが、鎌倉期以後になって当社は宣陽門院(せんようもんいん)~伏見)院御領、皇室領として存続し、神官佐伯氏も御家人として鎌倉後期には鎮西探題奉行人(ちんぜいたんだいぶぎょうにん)になるなど活躍している。近世には藩主黒田家より厚く崇敬された。
福岡 ミヤジダケジンジャ
宮地嶽神社
創建は約1600年前までさかのぼるそうです。国史にその名を残す息長足比売命(神功皇后)の御代で、仲哀天皇のなきあと、自ら大陸に渡り、皇后は当地に滞在され、裏の山の頂きに祭壇を設け、「天命を奉じて彼の地に渡らむ、希わくば開運を垂れ給え」と、祈願して船出されということから彼の地を「宮地」と呼び、彼の山を「宮地嶽」と称するようになり、息長足比売命の有名不可思議な偉業を称え、祭神と祀り、ともに功労をなした勝村・勝頼両神とあわせて、宮地嶽三柱大神と崇めている。
福岡 ハコザキグウ
筥崎宮
旧:官幣大社。現:別表神社。応神天皇のほか神功皇后、玉依姫命を祀る。
筥崎八幡宮とも称し、宇佐、石清水両八幡宮とともに日本三大八幡宮の一つといわれている。平安時代のはじめ、延喜21年(921年)醍醐天皇はご神託により大陸・玄界灘に面したこの地に国家鎮護のため壮麗な御社殿を建立し、延長元年(923年)御祭神を移し祀ったと伝わる。正月の玉せせりと9月の放生会には参拝者で賑わう。境内には宝物殿、石燈篭、唐船塔、蒙古の碇石等がある。博多では古くより、筥崎宮の海岸の真砂をお潮井といい、これを[てぼ]といわれる竹かごに納めて持ち帰り玄関口に備える。お潮井は、[災いを除き福を招くもの]として、常日頃より身を清めるお祓いに用いられる。
福岡 ダザイフテンマングウ
太宰府天満宮
学問の神・菅原道真公を祭る天満宮の総本社。現在の本殿は天正19年(1591)に小早川隆景が寄進したもの、五間社流造の建築は国の重要文化財。境内には196種・6千本の紅白梅、樹齢約千年の老樟、約40種・3万本の花ショウブ等がある。又、宝物殿、歴史館、芭蕉や吉井勇の歌碑もある。
私は受験に際しお祈りしたのだが失敗続きであった、祈る前に努力が足りなかったネ。
福岡 クシダジンジャ
櫛田神社
福岡市の総鎮守としては最古の歴史をもち、正殿には大幡主大神、左殿には天照皇大神、右殿には素盞鳴大神(すさのうのおおかみ)が祭られています。戦国時代には戦火をまぬがれず一時荒廃しましたが、天正15年、太閤豊臣秀吉公の博多復興時に現在の社殿が寄進建立されました。
境内には、博多歴史館・常設飾り山笠・大銀杏・博多ベい・川上音次郎の寄進碑などの見どころが多数あります。
資料は  東京堂出版:神社辞典(白井永二・土岐昌訓編) 三省堂:大辞林、 講談社:日本語大辞典他を参考にしました。 04.11.21更新
04.08.18追加編集



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