津和野 マリア聖堂

  乙女峠の廃寺光琳寺にはかつて切支丹信徒が収容されていました。
これは、幕府が切支丹信徒を改心させる為津和野藩に預けたのが 現津和野駅西方乙女峠だったのです。明治元(1868)年、長崎浦上から153人の信者が送られ、明治6(1873)年帰国に至るまでに(長崎浦上の隠れ切支丹信者)36名が殉死されたそうです。※
後に津和野教会神父パウロ・ネーベル氏によりマリア聖堂が昭和26(1951)年建立され殉教徒の霊を慰めています。
島根県鹿足郡津和野町後田乙女
04.08.02裕・編集追記
マリア
Maria
イエスの母マリア。
新約聖書ルカ福音書によれば、ヨセフとの婚約中、天使から受胎告知を受けた。五世紀前半から神の母、無原罪の女性とされ崇敬の対象とされてきた。
せいどう
聖堂
キリスト教の教会堂。
司教座の置かれたものを司教座聖堂、または大聖堂と呼ぶ。カテドラル。
しきょう
司教
ローマカトリック教会の聖職位の一。
司祭の上に立つ。教区の監督者。正教会・聖公会の主教に当たる。
※浦上四番崩れ
  長崎県で江戸時代末期から明治時代初期にかけて起きた大規模なキリスト教信徒への弾圧事件のことです。
1867(慶応3)年隠れキリシタンとして信仰を守り続け、キリスト教信仰を表明した浦上村の村民たちが江戸幕府の指令により、大量に捕縛されて拷問を受けたました。江戸幕府のキリスト教禁止政策を引継いだ明治政府の手によって村民たちは流罪とされました。
このことは諸外国の激しい非難を受けたことで、1873(明治6)年にキリシタン禁制は廃止されました。
1614(慶長19)年以来259年ぶりに日本でキリスト教信仰が公認されることになりました。



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